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棄国ノススメ 増田幸弘

なにもかもが息苦しくて、たまらなかった。それが社会のせいなのか、自分のせいなのかはよくわからない。たぶんその両方なのだろうが、社会のせいにしたところで、どうなるわけでもない。

目の前にあると思い込んでいた社会は、実体などどこにもありはしなかった。なにやら空気のかたまりを相手にしているように、手ごたえがなかった。自分が何者でもないように、社会もまた何者でもないのだ。どうりで社会を変えようなどと意気込んだところで、どうにもならないわけである。

p18

阪神淡路大震災を境に、この国は何かおかしいと感じるようになった。それから日本を疑いはじめた。国というのは実は頼りにならないのではないか。国はなんのためにあるのだろう。これまで国だと思っていたものはただの幻にすぎないのではないか。

p40

日本はアメリカに戦争で負けた。しかし、それ以上に日本は日本に負けたように感じる。それが国というものであり、戦争の本質ではないか。

p262

動機はもっと深いところにある。日本という国に絶望したのだ。

直線的宗教観と円環的宗教観

私は今まで円環的価値観を持っていた。春夏秋冬、1年で再び、また元に戻る。輪廻転生。

直線的宗教観は日本人である私には合わないと思っていた。直線的宗教観は砂漠で生まれた一神教のものであると。

しかしながら、最近思うのが直線的宗教観もあながち間違いではないのではないかということである。

20歳の人生は一生で一回しかない。30歳の人生も、また一生で一回しかない。今日という日は一生に一回しかないのだ。

産まれてから死ぬまで一直線である。30歳の後に25歳をやることもない。年齢とともに直線的宗教観のほうがしっくりくるようになってきた。

夜食

夜食のカップラーメンを食べようとしたら、、普段ならポットに入っているはずの湯がなかった。
身体に悪そうな、レトルト食品である。これを食べると、顔に吹き出物が出来る時がある。
 
いつも湯の準備をしている人間が、今日はカップ麺を持って来ていないからだという。


みんな誰かがやるだろうと考えて誰もしない。仕方がないので、私が湯を沸かしたのだが文句を言う人間はいても、湯を沸かそうとする人間は誰もいないのだ。




そのくせ湯が沸くと我先にと使いやがる。


私より先に使うやつもいた。


人間というのはこんなものなのだろう。

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